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(1)

岡崎城総構え発掘調査(中央緑道)

現地説明会資料

平成 29 年(2017)10 月 28 日(土)

調査主体:岡崎市教育委員会/支援業者:(株)知立造園 1 調査の目的

今回の調査は、「岡崎城跡整備基本計画—平成28年度改訂版—」(平成29年3月)と「乙川リバーフロント 地区整備計画」に基づき、今後整備が行われる中央緑道及び豊川信用金庫跡地について、岡崎城総構えの総 堀や桜馬場などの遺構を確認し、歴史まちづくりとしての整備に活かすことを目的としている。

2 調査期間

平成29年10月3日(火)~11月10日(金)予定 3 岡崎城の概要

[中世の岡崎城]岡崎城は、享徳元年(1452)~康正元年(1455)頃に、明大寺みょうだいじに居館を構えた西郷弾正左衛門 頼嗣

よりつぐ

(稠頼つぎより)により、菅生す ご う川北岸の 甲 山かぶとやまから南西に延びる丘陵先端の 龍りゅう頭とう山に築かれた 砦とりでに始まるとさ れる。享禄4 年(1531)には松平清康が菅生川の北へ居館も移し整備した。天文11年(1542)に岡崎城で誕生 した徳川家康は、桶狭間の戦い後、永禄3年(1560)~元亀元年(1570)まで居城し城郭整備を行った。 [総構えの構築と東海道の整備]天正18年(1590)豊臣秀吉により家康が関東移封になると、岡崎城は豊臣 重臣の田中吉政が城主となり、慶長6年(1601)までに城下町を造成し、堀と土塁で囲う総構えとした。また、 菅生川の南を通っていた東海道を城下に引き入れた。これにより、岡崎城は東西約1.5km、南北約1kmの 大城郭となり、近世の城郭の基礎がつくられた。

江戸時代には、徳川家の信頼あつい譜代大名が岡崎城主となった。慶長6年には本多康重が入城し、伝馬 制が制定されことにより、城郭の東側に東海道沿いに伝馬町等を新設し街道筋を整備した。3代忠利は寛政 年間~正保元年(1624~44)に菅生川端石垣と籠崎堤を築造した。正保 2 年(1645)に水野忠善が城主となる と、城東の唐沢町、六地蔵町などの町家は郭外の川沿いに移転となり、郭内は東海道沿いを除き社寺と武家 屋敷地になった。総構えの東に接し整備された武士の馬術訓練に使われた桜馬場は、船荷を下す土場(渡場) としても利用され、六地蔵町と伝馬町が川荷の運送を特権的に担っていた。

岡崎城総構えと今回の調査区位置図

T-12

甲山

発掘調査場所

④額田郡岡崎地籍図 明治 17 年(1885)重合せ図

総堀全体が青色で描かれ、当時の堀幅も書か

れる。堤防沿いには道路が整備されている。

②参陽岡崎府内図 江戸時代中期 明和8年(1771)写

水野時代に総堀は水堀となり、川に沿い馬場が整

備される。左右に桜並木があり桜馬場と呼ばれた。

⑤岡崎市市街地図 昭和 2~5 年(1927~30)

籠田総門北の総堀は埋没していたが、南側は昭

和20年代まで残り、水路、貯木場に利用された。

③岡崎城図 寛政 12 年(1800)~文化2年(1805)

桜馬場に土場が描かれる。六地蔵町が陸路の運

送を担い、北は東海道に通じ材木等が運ばれた。

⑥岡崎市市街地図 昭和 33 年(1958)

戦災復興の区画整理事業で総堀は埋め立てられ

たが、河川敷に総堀の形の名残が見られる。

①岡崎城図 江戸時代前半

前本多時代の総堀には水が通っておらず空堀

であり、内側に土塁が造られている。

菅生川

総堀

菅生川

桜馬場 総堀

桜馬場 総堀

菅生川

総堀

菅生川

桜馬場

総堀

菅生川

桜馬場

菅生川 桜馬場

調査地点

調査地点

調査地点 [岡崎城総構え調査地点周辺の変遷]

調査地点推定位置

調査地点推定位置

調査地点推定位置

土場

総堀

(2)

[発掘調査の概要]

今回の調査地点は、近世の初頭に岡崎城跡の最外周に掘られた総堀の東側の南端部分であり、また、総堀

が菅生川に注ぎ込む合流点にあたる。現在の都市計画図と昭和初期の地図とを重ね合わせ、総堀の肩の位置

と想定される場所を各調査区とした。

総堀の獅子ヶ瀧(大正時代)

(出典『岡崎市史第7巻』)

調査区の配置図(昭和2〜5年岡崎市市街地図の重ね合わせ図)

(名称が網掛けの施設等は埋没・移転している。)

菅生川(乙川)

総堀 国道1号

殿橋

桜馬場

今回の調査地点

H29.7 の調査地点

中 央 緑 道 東海道二十七曲り

籠田公園

籠田総門 西岸寺

御馳走屋敷 総持寺

(河岸段丘)

■T-1:堀の東側(豊川信用金庫跡地)

T-1は、総堀の東側の肩を確認することを目的に設定した。

これまでの調査では、江戸時代の総堀そのままの遺構は確認され

ていないが、明治時代以降に総堀の筋を踏襲し利用されていたと考

えられる堀跡が確認された。この堀は、外側(東側)の肩の部分に

なり、地表から深さ3.4mまで掘り下げたが、さらに堀底は下へと 続く。戦後の復興期に埋め立てた土の中からは、戦災時の焼土や大

量の花崗岩の破片と近世から近代の瓦、陶磁器が出土している。堀

の法面上では、方形のえぐりが入る用途不明の花崗岩が出土した。

また、堀を埋め立てた後に掘られた現代の井戸が確認された。

■T-2:堀の埋め立て土(中央緑道南側)

T-2は、総堀の西側の肩を確認する

ことを目的とした調査区である。

地表から2mの深さまで掘削したが、

こちらの調査区でも地表下 1.6mで戦後 に埋め立てられた大量の花崗岩の破片

を含む土が全面で確認された。このこと

から、総堀の肩はさらに下層または西側

にあると推定される。

花崗岩片の土層からは、間知石積みの

現代の石組溝が確認されている。

T-1 近代の堀跡(北⻄から)

T-2 現代の石組溝と花崗岩⽚の埋め⽴て⼟(北⻄から)

T-1調査区平面図0 5m 堀

井戸

井戸 堀

石組溝

参照

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